目次
はじめに
「愛のメモリー」「地平を駆ける獅子を見た」など、
情熱的な歌声で日本の音楽界を代表する存在となった松崎しげるさん。
その圧倒的な声量、深い表現力、そして“世界一黒い男”と称される個性的なキャラクターで、
世代を超えて多くの人々に愛されています。
しかし、そんな松崎しげるさんのデビューには、あまり知られていない意外な秘話があるのです。
華やかなステージの裏に隠された苦悩、偶然が重なった運命的なチャンス、
そして「愛のメモリー」にたどり着くまでの長い道のり——。
今回は、「松崎しげる デビュー秘話」というテーマで、
音楽界屈指の“情熱シンガー”がどのように誕生したのかを詳しくご紹介していきます。
実はプロ野球選手を目指していた?異色すぎる学生時代
松崎しげるさんは1949年、東京都江戸川区に生まれました。
少年時代は音楽よりもスポーツに夢中で、特に野球が大好きだったといいます。
中学時代にはエースとして活躍し、将来はプロ野球選手を目指していたほど。
そんな彼が音楽に興味を持つきっかけとなったのは、
高校時代に友人から「文化祭で歌ってくれないか?」と頼まれたことでした。
当時の松崎さんはカラオケもない時代、ギターを片手にビートルズを熱唱。
そのときの観客の反応が、彼の中で大きな衝撃となったのです。
「あの瞬間、ボールを投げるよりも歌う方が気持ちよかった」
この体験が、彼を音楽の世界へと導く最初のきっかけになりました。
とはいえ、当時はまだ歌手になるなど夢のまた夢。
卒業後は明治大学商学部に進学し、普通の学生生活を送っていました。
しかし、ここで再び運命の出会いが訪れます。
大学の仲間と作ったバンド「ミルク」がデビューへの第一歩
大学時代、松崎しげるさんは仲間たちとアマチュアバンド「ミルク」を結成します。
当時はアメリカのロックやポップスが大流行しており、
ビートルズ、スティービー・ワンダーなどの影響を受けたサウンドを追求していました。
ミルクは大学内でも人気があり、ライブハウスなどで定期的に演奏していました。
その熱気が次第に口コミで広がり、音楽関係者の目に留まります。
そして、1970年、ついに彼らはレコード会社からデビューのオファーを受けました。
バンド「ミルク」として「白い蝶のサンバ」をリリース。
当時、松崎さんはボーカルとして注目されましたが、
ヒットには恵まれず、バンドはわずか数年で解散してしまいます。
この時点で、松崎さんはまだ23歳。
「もう音楽の世界から身を引こう」と考えていた矢先、
思いがけない出会いが、彼の人生を大きく変えることになります。
あの作曲家との出会いが運命を変えた。ソロ歌手としての再出発
バンド解散後、松崎しげるさんはアルバイトをしながら生活していました。
そんなある日、ライブで偶然居合わせた音楽プロデューサーの目に留まります。
その人物こそ、「時の過ぎゆくままに」「また逢う日まで」などを手がけた名作曲家、
林哲司さんの関係者だったのです。
松崎さんの歌声を聴いたその人物は、即座にこう言ったといいます。
「この声は他にない。ソロで勝負してみないか?」
これがきっかけで、彼はソロ歌手としての活動をスタート。
1975年、「俺たちの旅」「愛のメモリー」など、
後に日本を代表する名曲を生み出すことになる一歩を踏み出しました。
当時の音楽界はアイドルブーム全盛期。
フォークやロックが主流の中、松崎さんのような圧倒的な声量と情熱的な歌唱は異色の存在でした。
しかし、彼は自分の信じた“感情をぶつける歌”を貫き続けたのです。
「愛のメモリー」誕生の裏側。泣きながら歌った本当の理由
松崎しげるさんといえば、やはり代表曲「愛のメモリー」。
1977年にリリースされたこの曲は、ドラマ「噂の女」の主題歌として大ヒット。
売上は80万枚以上を記録し、彼の名前を一躍全国に広めました。
しかし、この曲の誕生には意外なドラマがありました。
実は「愛のメモリー」のレコーディング当日、
松崎さんは体調を崩して声が出ない状態だったのです。
何度も録り直しを繰り返し、喉が限界に達していたその時、
「これで最後だ」と決めて歌った一発録りが、現在のテイクになったといいます。
「声が震えていた。でも、あの感情があったからこそ届いたんだと思う」
この一言が示すように、「愛のメモリー」は単なるラブソングではなく、
彼の“人生そのもの”が込められた楽曲なのです。
また、この曲の大ヒットをきっかけに、
彼は紅白歌合戦に出場、テレビやCMなどで活躍の場を広げていきます。
今や“情熱のシンガー”という呼び名は、彼以外にふさわしくありません。
「黒すぎる男」の由来と、意外なほどストイックな生活
松崎しげるさんといえば、その小麦色の肌でも有名です。
「日本一黒い男」「黒すぎる歌手」としてバラエティ番組でも親しまれていますが、
実はこの日焼けにも意外な理由がありました。
若い頃、彼はゴルフやサーフィンが大好きで、
日焼けをしているうちに「健康的でいい」と評判に。
その後、意図的に黒さを維持するようになり、
今では本人いわく「もう白く戻れない」と笑いながら語っています。
しかし、その一方で私生活は非常にストイックです。
お酒はほとんど飲まず、体型維持のために毎朝ジョギングを欠かさない。
さらに喉を守るために冷たい飲み物を避け、
発声練習を続けるという“職人のような生活”を送っているのです。
見た目の派手さとは裏腹に、根は非常に真面目で努力家。
このギャップこそが、多くのファンに愛される理由でもあります。
まとめ:松崎しげるさんのデビュー秘話が教えてくれる「情熱と覚悟」
「松崎しげる デビュー秘話」を振り返ると、
そこには数々の試練と、情熱に満ちた挑戦の物語がありました。
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少年時代はプロ野球選手を夢見ていた
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大学の仲間とバンドを結成して音楽の世界へ
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一度は挫折するも、偶然の出会いでソロデビュー
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「愛のメモリー」誕生の裏にあった涙のレコーディング
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“黒すぎる男”の裏にある努力と自己管理
これらのエピソードが示すのは、
「どんな状況でも自分を信じて続けることの大切さ」です。
「努力しても報われないことはある。でも、努力しなければ何も始まらない」
松崎しげるさんのこの言葉には、長年音楽と真剣に向き合ってきた重みがあります。
彼のデビュー秘話は、夢を追う人々に勇気を与える“情熱の物語”です。
そして今もなお、その深みのある声は年齢を重ねるごとに磨かれ、
多くの人の心に「愛のメモリー」を刻み続けています。

