『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』など数々の国民的作品を生み出した漫画家・鳥山明さん。
その圧倒的な画力とユーモア、独自の世界観は今もなお世界中で愛されています。
しかし、その偉業の裏には、**漫画家を目指していたわけではなかった男が、あるきっかけで運命を大きく変えた“衝撃のデビュー秘話”**がありました。
今回は、鳥山明さんがどのように漫画界に飛び込み、レジェンドとなるまでの原点エピソードをご紹介します。
目次
漫画家を目指していたわけではなかった?最初の夢は“商業デザイナー”
鳥山明さんは1955年生まれ、愛知県名古屋市出身です。
子どもの頃から絵を描くことは好きだったものの、当時は漫画家になるつもりはまったくなかったと語っています。
高校卒業後は、地元の広告制作会社に就職し、デザイナーとして働き始めます。
しかし、厳しい職場環境と自由のない業務にストレスを感じ、わずか2年ほどで退職してしまいます。
無職の中、賞金目当てでジャンプの新人賞に応募
退職後しばらくは無職の状態が続き、「何かできることはないか…」という気持ちで見つけたのが、週刊少年ジャンプの新人賞募集でした。
絵は得意だったものの、漫画の描き方はまったく分からず、「賞金が欲しくて」という軽い気持ちで投稿したのが、処女作『アワワワールド』です。
この作品がジャンプ編集部の目に留まり、鳥山明という名が一気に注目を集めるようになります。
編集者との出会いが運命を変えた!“伝説の名編集”との二人三脚
鳥山明さんの才能を見出し、デビューを後押ししたのがジャンプ編集部の名物編集者・鳥嶋和彦(通称:トリシマ)さんです。
当時は絵だけがうまく、ストーリー作りには苦戦していた鳥山さんに対し、鳥嶋さんは何度もアイデアを出し、企画を練り直しました。
「売れるまで何度でも描け!」というスタンスで、二人三脚で取り組んだ結果、ようやく生まれたのが**連載作品『Dr.スランプ』**です。
『Dr.スランプ』が大ヒット!ギャグセンスとキャラデザインが爆発
1980年にスタートした『Dr.スランプ』は、アラレちゃんの個性的なキャラクターとナンセンスギャグで一大ブームを巻き起こしました。
これにより、鳥山明さんは一躍トップ漫画家の仲間入りを果たし、テレビアニメ化、グッズ展開など幅広くメディアミックスが進みます。
この作品で得た経験と人気が、のちの代表作『ドラゴンボール』へとつながっていきます。
『ドラゴンボール』は編集からの無茶ぶりだった!?バトル路線への転換の裏話
『Dr.スランプ』の連載終了後、鳥山明さんは再びジャンプで新作を描くよう依頼されます。
最初は冒険+ギャグの要素が強かった『ドラゴンボール』でしたが、編集者からの提案で“バトル中心”へと路線変更したことで、一気に読者層が拡大。
この変更が功を奏し、世界的なメガヒット作品へと成長していきました。
今では全世界で2億6000万部以上を売り上げる、日本漫画史上に残る金字塔です。
まとめ|鳥山明さんのデビュー秘話は、“賞金目当ての投稿”が生んだ天才漫画家誕生の物語
鳥山明さんのデビュー秘話は、漫画家を目指していなかった青年が、偶然のきっかけで投稿し、編集者との出会いによって覚醒した奇跡のような物語です。
そして、描くたびに読者を驚かせ、笑わせ、感動させてきたその手腕は、今なお世界中で多くの人々に影響を与え続けています。
天才・鳥山明さんの出発点には、努力と偶然、そして信頼できるパートナーとの出会いがあったのです。